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前代からの年寄(老中)である

秀忠の死後、前代からの年寄(老中)である土井利勝、酒井忠勝、酒井忠世が引き続き年寄となったが、家光は今まで年寄一人ができたことも、年寄3人での合議が無ければ将軍への披露を認めないことにした。そのため政務は渋滞を来たし、諸大名が幕府にちょっとした進物を出すこともままならなくなった。寛永16年(1634年)には制度を改め、年寄り3人の担当を月番制とし、六人衆(若年寄の前身)をその補佐として置いた。当初はこの制度は円滑に動いていたが、後に年寄たちが案件を翌月に先送りするようになり、さらに渋滞を招いた。

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その後六人衆から松平信綱や阿部忠秋らが老中となり、土井利勝や酒井忠勝は重要な事項のみ扱う大老となった。また、目付と大目付を設置し、年寄達を通さずに直接将軍が情報を掌握できるようにするなど、幕府の諸役職は家光の時期に定まっている。

微行(お忍び)で市中に出るのを好んだとされる。勝海舟の『氷川清話』には、決してその趣味を改めようとしない家光を懲らしめるため、老中が屈強な男を雇って喧嘩を売らせたという俗話が記されている。落語「目黒のさんま」のモデルとも言われるのはこうした世評からであろう。

将軍になって以降も遠乗りや諸大名の邸への御成などで外出することを好んだ。遠乗りの際には馬で一人だけ駆け出し、お供を置き去りにすることもしばしばあったという。

家康や秀忠同様に能を好んだが、風流踊を主体とした催しをしたり、役者ではない諸大名や家臣に演じさせたりと、やや「屈折」した愛好の仕方であった。柳生宗矩にも、秘曲として名高い難曲「関寺小町」を舞わせている。玄人の中では当時の代表的な役者である北七大夫を父同様に贔屓した[2]。

また、華美な装いも好み、諸大名に伊達衣装で登城を命じたこともある。

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2009年05月01日 11:54に投稿されたエントリーのページです。

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