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2009年01月 アーカイブ

2009年01月11日

難民として鉄雄の遊び相手として連行

カオリ
原作では難民として鉄雄の遊び相手として連行され、鉄雄の侍女となる。当初は、被災体験のショックから感情の発露も少なかったが、本来は明るく優しい性格であり、アキラの面倒もよく見ていた。最後は鉄雄へのクーデターを企てた連中に背後から射殺される。劇場版では鉄雄のガールフレンドとして登場。漫画版とは異なり卑屈とも言える大人しい性格。力に目覚めた鉄雄の不安定な精神の拠り所となる。最期は暴走した力で膨れ上がった鉄雄に押し潰されて死亡する。
竜(りゅう)
ケイの反政府ゲリラグループのリーダー。本名は竜作。金田をグループに入れたのも(どちらかと言えばケイのフォローのお蔭であるが)彼である。革命を信じて行動するも、より大きなうねりに翻弄され、幾度と無く危機的な状況に陥った。原作では暴走したアキラを目の当たりにして、これを止めようとして発砲、弾け飛んだ力の余波で崩れた瓦礫に押し潰される。劇場版では保身を図った根津に撃たれた後、アキラの騒ぎを革命と勘違いし、安らかにこの世を去った。
ケイ
反政府ゲリラの少女。兄の後輩である竜とは息の合ったコンビ。当初は竜を慕っていた。原作・劇場版とも偶然出会った金田に窮地から助けられ、言い寄られるのを拒否しつつも行動を共にするようになる。原作ではネオ東京崩壊後、ミヤコによって彼女らの超能力を媒介する能力を開発され、鉄雄と対決する。
教師の父親と14歳年上の兄がいたが、5歳の時に父親は病死。以後は学生運動を行う兄のもとで育つも、兄はとある事件の容疑者として逮捕のち獄死。死因は自殺として処理されたが、未だに不審点が残っている。その後は兄の後輩にあたるリュウのもとへ引き取られ、反政府ゲリラに加わる。
2002年3月8日生まれ。
チヨコ(本名不明・原作のみ)
反政府ゲリラの武器調達・連絡員で巨漢の女性。通称「おばさん」。ケイを実の娘のように大切に思っている。以下に述べる大佐と比較しても体格的に遜色がないほど筋肉質であり、武器の扱いにも手馴れている他、機関銃を手に下げて発砲したり、対戦車ロケットを鈍器として振り回すなど、高い戦闘能力の持ち主である。ケイや金田と共に偶然アキラを保護するも、届け出た根津に切り捨てられそうになり離反、根津のバックにいたミヤコの勢力と衝突することとなる。ネオ東京崩壊後はケイと共にマサルとキヨコを保護し、アキラ・鉄雄の勢力に対抗していた。
大佐
アーミーの実質的な最高指揮官で、凍結されたアキラの最高管理者でもあった。名字は敷島。防衛庁職員の父親がアキラの災厄に遭って死亡した事から、アキラにこだわる。劇場版では鉄雄の暴走を食い止めようと奔走し、原作ではクーデターを起こしてまでアキラを奪取しようと試みるも、根津の誤射により寸での所で保護に失敗、再びアキラの力を目の当たりにする。原作においてのネオ東京崩壊後もアキラと鉄雄を抹殺するチャンスを狙っていたが、後に同じ目的を持つ反政府組織残党のケイやチヨコと共闘することとなる。名前のモデルは、『鉄人28号』で鉄人計画に関わり鉄人28号を開発した敷島博士。
父親の死後の3年間は母親と兄弟と共に過ごす。16歳の頃に夜間学校に入学し、アルバイトの傍ら勉学に励む。卒業後は士官学校に入学し、優秀な成績で卒業。幹部候補生学校に推薦で入学し、卒業後にアーミーに入隊。翌年にはアメリカ国防総省に留学し、帰国後は陸軍特殊部隊を設立して指揮官に任命され、さらに32歳の頃には父親が加わっていた「アキラ・プロジェクト」の指揮官に任命される。
1977年11月15日生まれ。
ドクター
大佐のもとでアキラを始めとするナンバーズ(後述)の研究管理を司る人物だが、現象の観測に熱中するあまり、周囲を顧みずに鉄雄の暴走を許してしまう。作品上、最年長。原作ではアキラ覚醒の際の冷却液漏れで凍死。劇場版では、鉄雄の能力データの収集に夢中になり、結果としてアキラの力の開放に巻き込まれ観測トレーラーごと圧死する。
根津(ねづ)
政府野党に属する政治家。表ではミヤコの教団の力を背景に政界工作を行い(原作)裏ではケイの反政府ゲリラに資金を与え指導している(原作・劇場版共)。原作ではタカシを射殺、これが2度目のアキラの暴走を招き、それによって瓦礫と共に消滅する。劇場版ではアーミーが秘匿するアキラの正体を握る事で政治的優位に立つことを画策し、結果大佐の起こしたクーデターによって失脚、混乱のさなか心臓発作を起こし死亡する。
千葉県の農家に生まれ、学業は優秀。某大学の法学部に進学するも、アキラによる東京崩壊に遭遇。それから3年間は闇屋として学び、裏社会の人間たちに知られるようになる。大学が事業を再開した頃に復学し、卒業後は弁護士に就く。30歳の頃から政界に進出する。
1964年12月11日生まれ。

とまま 月の微笑 アテンポ アトゥドア トリビュ ブイWEB イアリン リスト タンザ マルチ ティック ガーナ デジャブ ぴっこ エミュー レーター マルク レンジャー チータ リーシム タカス イミング チャー オペレ トサミズ イチョウ ワラント ギアサン ミヤマ 一意専 ツァーリ テーマ ネメシア チャック プラグ フレンドリー キープトコ えいち リユース パラソル みるいろ ミル スキーヤー ダイウェブ フリータ カツラ ブラジル レジデント パテ シマル

2009年01月18日

大手Nゲージメーカー

日本の大手Nゲージメーカーでは唯一、蒸気機関車をラインナップしていない。過去C57を販売し(1983年)、20周年記念モデル9600を製作するなどしていたが、マイクロエースなどの競合から現在ではきかんしゃトーマスシリーズを除き生産していない。ディーゼル機関車には、実在しないフリースタイルのCタイプ小型ディーゼル機関車をラインナップしており、車体カラーはオレンジ、黄、青、緑、白、茶色の6色がある。

貨車
「トミーナインスケール」の頃より貨車の種類が豊富で、事業用車など特殊な車両までラインナップされている。初期の貨車(香港製OEM品)は取り扱いを中止し、その後金型を保有するケーダー社より製品の供給を受けたグリーンマックス限定品や河合商会製品として復活販売されているものもある。ちなみに、ラインナップにあるタム6000形は、先述のCタイプ小型ディーゼル機関車と同様、実在しないフリースタイルの貨車である。

客車
寝台車は14系14形、24系25形100番台を中心に長年発売されてきたが、近年14系15形、24系24形、24系25形0番台が製品化された。さらに列車名を冠してその編成独自の個室車、改造車が含まれたセットが発売され、特に最近の傾向では廃止された寝台列車を限定製品化する「さよなら○○」シリーズが多く販売されている[3]。なお、12系や50系以外の客車は、未だにボディーマウント式のTNカプラーには対応していない。これはTNカプラーは連結部が密着してアソビの部分が存在しないことで重心移動によるショックを吸収できないため、機関車牽引列車では脱線を起こすことによる。セット販売が中心となり単品での入手が困難な製品がある。その他にジョイフルトレインも多数製品化している。

TNカプラー使用による機関車牽引列車の脱線は、編成が長くなればなるほど、その危険度が高まる。
ただし台車マウント式の場合は、カプラーポケット部でいくらかのアソビを持たせられるため、ボディーマウント式よりは脱線のリスクが低まる。
アーノルドカプラー使用時よりもアソビがないことには変わりないので、脱線のリスクが完全に解消されるわけではない。

私鉄車両
積極的に私鉄車両の製品化を行い、現在でも比較的ラインアップが充実している。トミックスで初めて作られた私鉄車両西武5000系レッドアローに始まり、2005年に話題となった小田急ロマンスカー50000形VSEをはじめ、7000形LSE、10000形HISEや名鉄8800系パノラマDX、東武100系スペーシア、近鉄21000系アーバンライナー、長野電鉄1000系ゆけむりなどの特急車両や、箱根登山鉄道1000形、三陸鉄道36形、しなの鉄道115系、169系、松浦鉄道MR‐100形、南部縦貫鉄道キハ10形レールバス、北海道ちほく高原鉄道CR70形など製品化されている。なお、以前にも発売されていた名鉄7000系パノラマカーが2007年にハイグレード製品化されている。
久兵衛 弁慶国内 ユニット ノール とうもろこし レーズン おっくう ジャル パイダー デザート カメオ 四ツ溝柿 ドヤム ハマー ジグ ブルー フライス デリー トレイル 養老 チロリ パンテ スパイラル ティッカー イール シドニー ハナタ フィッ ノンド キーロガー シャワ バクー国内 プレーヤー ピエタ タリン 白い香 オリーブ ライプ カップル 眠り姫 ネブラ リンス 待ちぼうけ ワースト スマート フリーレ ドックス デッサン ズバー

価格
細部にこだわったHGシリーズの価格は高価である。既存品はリニューアルなどに伴い価格帯が上昇した。 いっぽう他社と競合する車種では、TNカプラーの装備を省略してオプション品としたり、E4系のように一部に安価な部品を採用して価格帯を下げる傾向も見受けられる。

発売時期
TOMIXに限った事ではないが、新製品や再生産品の発売が当初の発表より延期されることがよくあり、予定通り発売されることの方が珍しい。概ね1~3ヶ月程度遅くなるのが通例である。

レール
トミックスレールは1976年に国内メーカー初のNゲージ道床付きシステムレールとして発売された。 これは平面性が確保しづらい床の上でも、軽いNゲージ車両に安定した軌道を与え、容易に安定した走行を確保できるものであった。従来Nゲージに限らず鉄道模型は固定式線路を使用しベース上にレイアウトを製作し車両を走行させるすることを前提にしていた。日本市場では、狭い住宅などの事情によって鉄道模型専用に部屋をもてない者が多い中、遊ぶ毎に敷設し撤去も容易にできるレールを要求するニーズが存在し、「お座敷レール」として好んで受け入れられた。また、ターンテーブルもフロアレイアウトでレールにフラットに接続できるもので、国内唯一の存在である。その一方で固定式レイアウトでの使用も考慮し、道床の厚みは比較的低く釘穴も開けられている。

トミックスレールのもうひとつの特徴はアクセサリーなどの関連製品が充実しシステム性が高いことである。トミックスは欧州で既に一般的な、綿密に計算されシステム化されたレールシステムを日本へ導入し、日本市場でのNゲージ人口拡大に貢献した。また、レールを国産化し日本形レールを普及させたが、現在では生産拠点をコストの低い中華人民共和国へシフトしている。

基本仕様
ストレートレールの基本長は140mm。これは駅などでの有効長の計算を簡単にするため、20m車両約1両分(≒133mm)に近い値として設定されている。この他に基本長の2倍の長さの280mmや1/2倍の70mmを基本としてシステムが構成されている。
複線間隔は37mm(道床の幅の2倍)。これに基づき、カーブレールの半径や信号機の機械の幅などが決まっている。線間がやや広くリアリティに欠けるものの、新幹線等の大型車両をすれ違わせても干渉することがない。
カーブの基本半径は280mm。これに複線間隔37mmを順次プラスマイナスした半径243mm、317mm、354mm、391mmなどがある。
本システムの特徴として、ポイントなどの特殊なレールを除くほとんどのレールにフィーダー差込口がついている点が挙げられる。道床付きレールシステムの多くがフィーダーを取り付ける専用の直線レールを必要とする中、カーブにも直線を組み込むことなく給電できる数少ないシステムである。

電動ポイント
TOMIXのポイントは種類も豊富でレイアウトの自由度が高い。近年では小型化に力をいれており、全長わずか70mmの電動ポイントを模型化している。

初期のものはポイントマシンが大型で複線間隔37mmに入れることは可能であるが並列して使用することはできなかった。その後、ポイントマシンが取り外し可能な小型のものとなり、並列して、また高架駅への使用が可能となった(ニュー電動ポイント、1981年~)。ポイントマシンはライトグレーであったが、発売されたバラスト(当時はグレー1種のみ発売)にあわせてすぐにダークグレーに色調が合わせられた。ポイントマシン完全内装化は、ポイントマシンがDCバイポーラ式への変更に伴い薄型化された1997年(Neo化・電動ポイント-N)以降であるが、従来製品である3線式ポイントスイッチとの互換性はない。

Neoシリーズは転轍機をダミーで表現しトングレールを支え動かすロッドを緻密に再現している。さらにFineTrackでは、道床付としては日本初のダブルスリップポイント[4]、Y字ポイントも加わっている。なお、2008年2月には三方ポイントも発売され、2008年夏よりリニューアルが行われている。

2009年01月26日

ジグムント・ストヨフスキ

ジグムント・デニス・アントニ・ヨルダン・デ・ストヨフスキ(Zygmunt Denis Antoni Jordan de Stojowski, 1870年5月4日 – 1946年11月5日)はポーランド人ピアニスト・作曲家。20世紀になると渡米し、ニューヨークを拠点に、いわば第二の故郷として活動を続けた。

生涯
キェルツェ近郊に生まれ、母マリエから音楽の手ほどきを受けた後、ポーランドの作曲家ウラディスワフ・ジェレニスキに師事する。クラクフにおいて、弱冠17歳のまだ学生だったうちに、地元のオーケストラと共演してベートーヴェンの《ピアノ協奏曲 第3番》を弾き、演奏会ピアニストとしてデビューを果たす。

18歳でパリに留学して、ピアノをルイ・ディエメに、作曲をレオ・ドリーブとテオドール・デュボワに師事。2年後にパリ音楽院においてピアノ演奏および対位法とフーガで首席となる。しかしながら1901年12月にワルシャワの雑誌に掲載されたストヨフスキへのインタビューによると、恩師として最も深い影響を受けたのは、ヴァイオリニストのウワディスワフ・ゴルスキと、1891年より師事したピアニストのイグナツィ・ヤン・パデレフスキであったという。パリ音楽院在籍中は、ソルボンヌ大学にも通って哲学・歴史・文学を修めた。

1891年にパリのサル・エラールにおける演奏会で、バンジャマン・ゴダールの指揮によって自作の《ピアノ協奏曲 第1番》を上演し、作曲家や演奏家としての国際的な活躍にとりかかる。その後はドイツやイングランドの最も重要なオーケストラとも共演し、そのさい自作を上演して大成功を収めた。1898年7月9日にライプツィヒのパデレフスキ国際コンクールにおいて《交響曲 ニ短調》作品21により優勝し、マウリツィ・ザモイスキ・コンクールでは《ポーランド幻想曲》によって準優勝となった。当時のストヨフスキの作風は、ブラームスやチャイコフスキーの影響がとりわけ顕著であった。

1901年11月5日に、ワルシャワ・フィルハーモニー管弦楽団の第1回演奏会において、エミール・ムウィナルスキの指揮により、ストヨフスキの《交響曲》作品21が取り上げられ、コンクールを勝ち抜いた作品として演奏会当日の目玉となった。12月のワルシャワ・フィルハーモニー管弦楽団の演奏会では、ストヨフスキがソリストとして出演し、翌1902年1月にも再び出演し、十八番のサン=サーンスの《ピアノ協奏曲 第4番》を上演した。

1905年10月に渡米し、ハロルド・バウアーとパブロ・カザルスに推挙され、フランク・ダムロッシュが開設したばかりの音楽芸術研究所(ジュリアード音楽学校の前身)の教員に就任するかたわら、ごくわずかな期間でピアニストとして名を揚げた。早くも1906年にカーネギー・ホールにおいてフランク・ダムロッシュ指揮のニューヨーク交響楽団と共演し、サン=サーンスの《ピアノ協奏曲 第4番》を弾いた。

幅広い演奏活動に加えて、教育活動にも勤しむ。1911年まで音楽芸術研究所の教壇に立ち、その後は1917年までフォン・エンデ音楽学校の校長に就任した。最終的には、入門志願者のあまりの多さに、マンハッタンの4階建ての自宅に「ストヨフスキ音楽塾(Stojowski Studios)」を開いた。また、米国およびカナダ・南米の各地で夏季講習会やマスタークラスを主宰し、1940年から1946年までジュリアード音楽学校でも夏季講習会を催した。
ドール ワーカー イエロー コヒル ナツメグ トリックス パントリ スプーン パハク ツイン イートイ しゃみ プリズム リンゴ ストロベ チュー オムライス 冒険家 サイメッ チュートリ チョン フェニ キャン ファンブル フィス サザン ビエラ デパー 木綿のハン コイズ ラウンド ジンコール パフス マザー オシレー にっけ ベンチ こかげ チョッキ 日本全国 ユニタ タグカード オプテ ユトレ アドイン フリゲート 極楽トンボ トルリン ワスレナ フェミ

ストヨフスキの最も重要な門人に、アレクサンデル・ブラホツキ、アントニア・ブリコ、フィリダ・アシュリー、オスカー・レヴァント、ミッシャ・レヴィツキ、アーサー・レッサー、アルフレッド・ニューマン、ギオマール・ノヴァエス、ハリエット・ウェア、ルイサ・マティルデ・モラレス=マセドがいる。モラレス=マセドはストヨフスキと結婚した女性ピアニスト・作曲家で、1930年代末まで教師としても活躍した。彼女との間にもうけた3人の息子(1919年生まれの長男アルフレッド、1921年生まれの次男ヘンリー、1923年生まれの三男イグナス)を、ストヨフスキは「自分の3つの傑作」と呼んでいた。

ニューヨークでは、偉大な音楽家や名伯楽として称賛され、ニューヨーク・フィルハーモニー管弦楽団によって演奏会で自作を取り上げてもらうことのできた最初のポーランド人作曲家という栄誉にあずかった。

主要作品
交響曲
ヴァイオリン協奏曲
ピアノ協奏曲 第1番、第2番
ピアノと管弦楽のための交響的狂詩曲 Rhapsodie symphonique
チェロと管弦楽のためのコンツェルトシュテュック
室内楽曲(多数)
ピアノ曲(多数)
カンタータ(2曲)
声楽曲(多数)

エセル・スマイス(Ethel Mary Smyth, 1858年4月23日 - 1944年5月8日) はイギリスの作曲家。19世紀後半の女性作曲家としては、フランスのオーギュスタ・オルメスやシャミナード、アメリカのエイミー・ビーチと並ぶ偉大なパイオニアである。また、サフラジェット(戦闘的女権運動の闘士)としても名を残した、先駆的なフェミニストでもあった。晩年に聴力を失ってからは、エッセイストに転じ、自伝や交遊録を残した。ちなみに、上野千鶴子の著書などでは「スミス」と紹介されることもあるが、これはイギリス英語の発音ではなく、米語に基づく表記である。また、スマイス以前に、アリス・メアリ・スミスというイギリス人女性シンフォニストがいたことから、混同しないように注意が必要である。

生涯
ロンドンの軍人の家庭に育つが、厳格な父親への反感からドイツに渡り、短期間ライプツィヒ音楽院でザーロモン・ヤーダスゾーンと院長カール・ライネッケに学ぶが、校風になじめず退学。のちウィーンに渡って、ブラームスの友人ハインリヒ・フォン・ヘルツォーゲンベルクの個人指導のもとに作曲技法を磨いた。ブラームスのことを「音楽界の救世主」と呼んだほどに熱烈なブラームスの崇拝者であったが、初期と晩年に器楽曲を物したのを除けば、歌曲や合唱曲、とりわけオペラ作曲家として活躍した。

初期の器楽曲にはメンデルスゾーン、シューマン、ブラームスの影響が見られる。帰国後のオペラ作品はアーサー・サリヴァンとワーグナーの影響が著しく、色彩的なオーケストラの用法と自在な転調、凝った和声と旋律の創意が顕著である。第一次世界大戦以降は、ホルストなどの影響のもとに新古典主義に傾いた。生涯を通して、重厚な響きと堅固な構成力、情熱的な表現が特徴的である。

エセル・スマイスはカミングアウトこそしなかったものの、同性愛者であり、創作や社会活動の背景と動機は、しばしば恋愛感情に由来している(「ミサ曲 ニ短調」など)。また、オペラやオペレッタには、フェミニズム(もしくはレズビアン・フェミニズム)的思想を盛り込んだものが認められる(歌劇「難船掠奪民 The Wreckers」など)。1930年初頭から、ヴァージニア・ウルフに熱を上げ、両者の間で大量の書簡を取り交わすほどに至った。

1922年、音楽的な功労に対してデイム(Dame)の称号を授与された。

作品
ミサ曲 ニ短調
ヴァイオリン・ソナタ ニ短調
チェロ・ソナタ イ短調
交響的セレナード ニ長調
オペラ「難船掠奪民The Wreckers」
弦楽四重奏曲 ホ短調
合唱曲「女たちの行進」
ヴァイオリンとホルンのための二重協奏曲

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